諦めることに慣れた社会で、どうオルタナティブを描くか
大学生になって、難民、労働、貧困系など、学内サークルを起点に学外の非営利団体にちょくちょく顔を出すようになった。そこで出会う人たちは、程度の差こそあれ、入管や難民法を取り巻く国の制度を批判し、労働者の権利行使を後押しし、軍拡や植民地主義に反対し、同性婚や夫婦別姓法制化に賛成で、何より「人権」という言葉をよくつかうという共通点があった。既存の社会を批判(具体的な法律や制度を変えるべきという論から、結局は資本家が悪いので根本的にその構造を変えるべきという革命思想寄りのものまで)する。このような立場は、「リベラル」もしくは「左翼」と呼ばれるらしい。私もどちらかといえばそのような考え方に立っているので、仲間といる時はなんとも居心地が良かった。でも、一歩コミュニティの外に出れば、「リベラル」で「左翼」な考えは他者に話しづらく、なんとなく広く支持されている感じはしなかった。
非正規雇用は拡大し、働いても働いても豊かにならないのに、社会保障を受けられている感じもしない。将来に希望を持てない。ケア労働には資源が投入されず、一部の人の負担が大きい。こうした不満は決して珍しいものではない。それでも、その不満は社会の仕組みを変える方向には向かっていないように感じられる。
生活を守るだけで精いっぱいの人も、声をあげても変わらないと期待をやめた人もいる。何よりも、不満を表現する言葉も場所も限られ、変化への道筋もロールモデルも示されていないのだ。そんな状況で、「あなたの生活が苦しいのに、生活保護受給者はこんな待遇だ」とか「外国人にはあなたにない特権がある」といった言説ばかりが流れてくる。不満が、より弱い立場の人たちへの敵意に回収されてしまうのは本当に悲しい。福祉や教育にもっとお金を使ってほしいという願いは、誰かを排除しなければ実現できないものでは決してないはずなのに。
リベラルや左翼的な価値観は、不満を抱える人たちの受け皿になれていない。それはなぜか。どんな運動ならそれができるのか。考えたい。
運動を批判する言説
SNSを見ていると、「社会運動」「活動家」のイメージは、あまり好意的ではないらしい。しかし運動への批判には、権力者に同調したバイアスがかかっていることが多いと思う。
権力者に迎合するというサバイバルスキル
例として私の中学時代の話をしたい。私は、いわゆるブラック校則のある公立中学に通っていた。入学当初は友達と不満を言い合っていたけれど、友達もだんだん愚痴を言わなくなった。ルールを守ることが当然で、見た目は均一にさせられ、先生に同調することが評価されるシステムだった。権力者の顔色をうかがい、規律から外れる生徒を冷笑する人間になった方が、楽に生き延びられたように思う。そのまま社会に出ていれば、上司や為政者の側に立ち、できない人間を下に見ていたかもしれない。この論理でいけば、デモをする人は努力もせず社会のせいにする人たちと映るだろう。
しかし私は、適合せず、宮部みゆきの『ソロモンの偽証』に出てくる、学校に対してデモや集会をする生徒に憧れていた。規律の強い制度に迎合しきれなかったのは、小一でアメリカ西海岸の小学校に通い、違う学校のあり方を知っていたからだと思う。こんな教育である必要はないはずだと、オルタナティブの可能性を信じられた。違う空間に身を置く経験は、社会の見方も生き方をも変える。
「暴力」が注目されるとき
この社会では、誰の暴力が問題にされ、誰の暴力が見えなくされているのか。構造的な抑圧や生活を追い詰める制度による傷つきは、必ずしも「暴力」と認識されない。一方、抑圧されてきた人々が制度の改革を求めると、その声の上げ方ばかりが取り沙汰される。この不均衡に目を向けなければならない。
運動の側の課題
とはいえ、左翼的なものに対する批判がすべて的外れだとは思わない。受け皿になれていない原因の一端は、運動の側にもあるはずだ。日々の生活で抱く不安や不満を、排外主義ではなく、誰もが生きやすくなるための変化につなげるために、リベラル的、左翼的な価値観を持つ社会運動が受け止められたなら、もう少し違う流れになると思う。
内部の排他性・閉鎖性
組織内部のハラスメントや活動家同士の攻撃し合いを、数多く耳にしてきた。強い気持ちを持つ人が集まるほど、内部の異論や個人の事情は軽視されやすくなってしまう。誰が正しいか、誰が当事者に近いかを示し合うマウンティングや党派性が議論の中で力を持ったり、特定の人に無償労働や感情的負担が集中したりする。正しさのためなら犠牲は仕方ないという考えが、個人を後回しにする。このようなことの積み重ねの上で、さらに強いメッセージで一致団結した場合、曖昧な立場の個人の違いを見えなくする点で、それはもう全体主義のようである。
方向性が違うなら、潰し合わず穏便に分かれ、近い分野では共闘すればいいのになあと思う。理想のために理想を犠牲にするのは自己矛盾のはずだ。
ロールモデルの欠如
運動の担い手は、東京の大卒・院卒に偏る傾向がある。私自身、非関東圏出身で、上京した大学(キラキラリベラルな私大である)で初めて運動に関わった。大学などに進学していない人にとって、自分と同じ属性の人が見当たらない場は、参加のハードルが高いように思う。
また、赤軍や安保闘争は「左翼」のイメージとしてひとまとめに語られ、馴染みにくい。60年安保、全共闘、反原発デモ、SEALDsなど経験は断片的にあるが、世代を超えて継承されず、先輩から学ぶ機会が乏しい。例えば韓国や台湾など、軍事独裁政権に対する民主化闘争の歴史を、社会の共有経験として持つ地域とは異なる点だと思う。
どちらも、自分を重ねられる人も、やり方を教えてくれる人もいないという意味でのロールモデルの欠如だ。
排外的な言説に傾く人たちの不満をどう受け止めるか
差別は人の尊厳を奪い、様々な制度から人を排除し、時に殺人を正当化してきた。差別的な言説は止めなければならない。しかし、その背後にある不満や痛みには耳を傾けたい。言説と、それを口にする人は分けて考える必要がある。
理解とは「同じ気持ちになる」ことではない。相手を既知のカテゴリーに位置づけてしまいがちだが、まずは人として向き合いたい。SNSでは複雑な問題ほど切り詰められ、強い表現ほど注目を集めるが、単純化せず、曖昧な立場に立ち続けたい。言説と人を分けることは、正しさを諦めることではない。自分の正しさをどう伝え、異なる立場の人とどう向き合うかを考え続けること。それが運動の側の課題だと思う。
私が私のまま生き続けるという抵抗
私は、奨学金などを借りずに東京の私立大学に進学できる経済環境と文化資本のある家に生まれた。一方で、体力がなく、うつ病で、不登校を経験し、今も数日間引きこもることがある。どちらも自分で選んだものではなく、偶然の巡り合わせの結果でしかないはずだ(それでも自分を責めてばかりだが)。
恵まれた環境は努力ではなく特権であり、それに自覚的であることは重要だ。一方で、生産性や自己責任が求められる社会で、動けない日がある人は自分を責めるよう仕向けられやすく、私はどうしてこうなんだろうと申し訳なさでどうにもならなくなったりもする。そんなときに、私が私のまま、自分を責めすぎずに生き続けることは、自己責任の論理の内面化へのささやかな抵抗だと思って生きている。自分に対しては認めてあげにくいほどに今の私には難しいけれど、休むことや離れることを認めない運動は、自分たちが批判する論理を内部に持ち込んでしまう。
私がそうであるように、人は、人との関係性のなかで変わる。自分らしく生きる姿が、「こんなふうに生きてもいいんだ」と誰かの人生に少しでも触れたなら、これ以上の喜びはない。
それでも社会運動は楽しい
今とは違う社会を想像でき、仲間に出会え、潜在的に持っていた不満や違和感を再発見し、それを語る言葉を獲得できる。自分だけがおかしいと思っていたことを、同じように感じている人がいる。そこにデモや集会、スタンディングの意義があると思う。そして、誰も何も言わなければ、不利な立場は当然とされ、自己責任とされる社会で、自分たちで変えられるのだと、力を取り戻す感覚を持てる。意思表示の方法は選挙しかないと思い込まされていたけれど、非暴力の直接行動という手段があるではないか。今とは違う生き方や関係性を実践し、空間を変え、公共を取り戻せるかもしれない。
運動の場は、声をあげられなかった人が自分の言葉を見つけるためのものであってほしい。不満を抱えながら表現する言葉も場所も持てずにいる人たちが、排外的な言説に身を預けるのではなく、自分の言葉で不満を語れる場を運動が提供できたとき、不満は誰かを排除するためではなく、誰もが生きやすくなるための変化へとつながるはずだ。